サッカーをやろう!そのサッカーはどのような位置付けになりますか?
何か努力したものの発表会的な位置付け、自由で楽しい遊び、役割が決まっている仕事、こんなところでしょうか?
発表会は誰が設定したのか?
これは環境でしょう。環境がそれを用意して演じます。これは主体的ではありません。決まったことに取り組む姿勢が求められます。
自由で楽しい遊びは、これはもちろん自分でやっています。むしろそのほかの人間は蚊帳の外です。
あれをやれ!これをやれ!と言っている場では部品的に役割をこなすしかありません。これは労働ですが、対価はありません。
自分に矢印を向けるために何が必要なのか、これは自分と向き合うことです。そのためには自己分析が必要となります。しかし、子供には無理でしょう。
ではどのように似た体験を作れば良いのか?
これは夢中、ムキになる、この辺りがヒントになると思います。もっともっと、求めることで足りないものを求めるようになっていくと思います。
難しいのが、それが主体的であるかどうかです。
他人にやらされているものでは高まりません。ルールや相手に矢印を向けることになるでしょう。自分に矢印が向いていると、何か不利な状況が生まれても自分の努力が足りてない、という反省になります。
足りないから、もっと努力する姿勢が出てきます。他人のせいにする人は、努力をしません。例えば「だってあいつデカいんだもん」この一言で自分を納得させて自分の負けを無かったことにします。ある種の現実逃避です。
誰が伸びるのか?
これは自分に矢印を向けている人に他なりません。自分が負けるような相手が現れた時に、自分の努力を上回る努力している姿も同時に思い浮かべることができます。そので生まれるのはリスペクトです。これはその相手も同じだと思います。
「こいつやるね」と感じていると思います。
「だって、だもん」星人は相手にされません。