なぜ足が遅いのか?
それは体をうまく操作できていないからです。結論ですw
ティエラの前身の活動から常にテーマとしていたことはポテンシャルを引き出すことです。人は基本的に同じパーツを持って生きています。そのため基本的な性能には大差がありません。
しかし、年齢を重ねれば重ねるほどその差は開いていきます。要因の一つは「教育」です。もう一つは教育に基づく「習慣」です。
教育とは型にはめること、と言われたりしますが、まさにその通りだと思います。現代ではその教育を歓迎する傾向がとても強くなっていますが、私は間違っていると思っています。
なぜなら、同じパーツを持っている人間は視覚的にも明らかに別人と特定できるほど個体差があります。内面的も同じで個体差があります。人は同じようで同じではありません。自然界にあるものは全てそうなっています。それなのに教育というもので同じにしてしまっては向き不向きもあり本人が望まない形で差が生まれてしまいます。
教育は本人がポテンシャルを発揮できるようになってからでないと高い効果を得られないと思います。本人が【主体的に行動し自立】出来ていれば教育と正しく向き合えると思います。だから教育により皆と同じになることはありません。
サッカーでもよく「爪先立ち」をするように言われたりします。これは相当やばい教育だと思います。これが出来るのは、頭が小さく、膝下が長い海外の人達です。真逆の頭がデカく、膝下が太くて短い日本人がやっても何の効果も得られないどころか怪我につながると思います。ふくらはぎが肉離れしそうです。
そもそも欧米やアフリカの方と日本人では足の着き方が違うんですよ。だから、ドリブルの仕方も違ってきます。ハーフの子達がなぜドリブルでスイスイ抜けているのか?これは当たり前です。その子たちに向いていることをやっているからです。
そのドリブルなども教育化が進んでいます。かなりやばいと思います。こんなもの型にはめてどうするのでしょうか?足の着き方だけではありません。
ドリブルの魅力は相手が邪魔をすることで生まれる偶然の状況をスマートに且つファンタスティックに解決する一期一会的なところにあります。トラップも同じです。
この他人が見せた一期一会的なプレーを切り取って反復練習する意味はどこにあるのでしょうか?単なる模造であって何の価値もありません。
例えば、モナリザには価値がありますが、コピーに同じだけの価値があるでしょうか?世の中、ボールを扱うのがとても上手い人たちが沢山います。しかし、この教育によって間違えた努力を覚えて習慣化した結果がどんなに才能があってもプロになれない原因だと思います。
当然ながら本物が並ぶところで模造品は売り物になりません。
私は「早期教育が才能、ポテンシャルの邪魔をしている」ということに気が付かない限り夢を掴むことは難しいと思っています。世には模造品が溢れかえっています。
サッカー選手の魅力は、その場、その状況でしか生まれないプレーを生み出すことに他ならないと思います。本人が生み出したのであればそこには再現性が出来てきます。ダブルタッチ、ルーレット、世界的なプレーヤーが頭に浮かびませんか?
今回スタートした「膕(ひかがみ)プロジェクト」は子供達のポテンシャルを呼び覚ますためのプロジェクトです。スピードというポテンシャルを一度失ってしまった子供に対して施策を講じてスピードを取り戻してもらいます。
目安は1ヶ月です。そこで検証して次のステップに進んで行きます。その中でサッカーに必要となる要素も落とし込んでいきます。ポテンシャルを取り戻すことに成功すれば、それだけでサッカーは劇的に上手くなります。
ティエラで指導を行っている私はアンチ教育ですw子供を信じているので、主体的な行動、自立を促すことで必ず本人の力で道を切り開いてくれると思っています。そしてそんな子供達を全力でサポートします!