一体何をやっているんだろう?
この写真からは良くわかりません。現地で見ていてもよくわかりません。しかし、子供たちはとても楽しそうに何かをやっています。
子供たちはその場でルールを作りながら遊んでいます。
この自らルールを作るというのがとても大切です。誰かが作ったルールの中に収まることは「型にはまること」であり、それを外部から行うことは「教育」です。
教育は扱いがとても難しいものです。
子供に対して、教育をすると子供のポテンシャルは下がってしまいます。なぜなら、20人いたとして同じ顔の子は1人もいません。みんな違うのに20人に対して大人が同じ型にはめてしまうわけなのでどうしても不具合が発生します。
例えば、教育の競争が激しい国は整形手術も身近です。そして日本でもそのような文化に対して傾倒している様子が見られます。同じものの中での競争が激しくなっているのだと思います。
さて、教育を正しく受け取るためには、本人が十分にいろいろな体験を積んでいる必要があります。教育を自分の養分にするための消化器官が必要です。放課後も毎日、何らかの教育を受けている今の子供達にはかなり難しいと思います。
ここでは少し視点を変えて「なぜ本を読まないのか?」について考えてみたいと思います。
最近の子は「本を読む機会が無くなった」と言われていますが、これはなぜでしょうか?
私は本を読みます。特にJFAの指導者教本は定期的に読んでいます。当然、本には一年前と今を比較しても同じ内容が書いてあります。
それではなぜ読むのか?
実体験を例に説明すると、私は以前、指導者講習会でインストラクターの方からアドバイスをもらう時「深い」という表現を使って質問をしたことがあります。
毎回、同じような指摘を受けても常に新しく感じて毎回「なるほど!」と唸る事になります。なぜこのような「深さ」を感じるのでしょうか?とインストラクターの方に質問をぶつけました。
ある方はからは「あなたのサッカーとはどんなものですか?」とフィロソフィーについて逆に質問を受けたことがありました。
「これからあなたが指導者として成長するためにはフィロソフィーが不可欠ですので考えみてください。これがその答えに辿り着くきっかけになるかもしないよ?」と。
その時初めて自分のサッカーとは何なのか、考える機会を得ました。
これは私に対して「基準は何だ?」という問いです。そこからずいぶん長い事「私のサッカーとは?」「サッカーをするためには何が必要なのだろう?」と考え整理を続けました。
いくつか、変更をしながらもやっと辿り着いたフィロソフィーは【リアクションではなくアクション】というものです。「どのような状況であっても常に自分に矢印を向け主体的にプレーする事」これが私のサッカーです。そして私は指導者としてこれを教育しています。
簡単にいうと「他人のせいにせず自分がやりたいことを責任を持ってプレーする」です。
人には個性があります。同じ食べ物を食べても感想は異なります。納豆が好きな子がいれば嫌いな子もいます。みんな違うのですからそれは当たり前の話です。そしてこれらは尊重されるべき自分自身の答えです。
食べ物は別として、なぜ物事の好き嫌いに差が生まれるのか?というと「その人の体験」これが思考に差を生んでいると思います。仮に大勢に対して同じ教育をするとどのようなリスクがあるかというと体験を省略して結果だけを与える事になります。だから個性がなくなり同じ中で競争が始まります。未就学児からサッカーを習っている子もいるくらいですからどんどんこのようになっています。
(個性を失っていますよ?•••)と言ってあげたいです。
私は指導実践という体験を通して学びを得ています。指導者の仲間たちが選手役をやってくれますが、皆さんのプレー、表情などを見れば計画の良し悪し、コーチングの良し悪し、はすぐにわかります。トレーニング後も皆さん指導者ですから忌憚なくフィードバックも頂けます。またインストラクターからの助言も得られます。大変情報量の多い体験です。
この体験により解説者から指導者に成長していきます。
ある時、その学びによって私の体験量が変化し「同じ言葉でも受け取り方が変化しているのだ!」と気付きました。だから、今までインストラクターの方からの言葉を「深い」と解釈したのだと思います。
これと同じように、指導者教本から受け取るメッセージにも変化が生まれています。毎回読むたびに「私の気付きはここに書いてあるじゃない!」と新たな発見に出会う事になります。体験により言葉からのメッセージ量が増えているわけです。
ここで大事になるのが「誰が?」という主語の部分です。当然、本人ここでは「私」です。
では私は情報をどのような基準にぶつけるのか?それがフィロソフィーですね!フィロソフィーは私の体験から生まれてきます。要するに私そのものです。
そのため、端的に言うと本を楽しむというのは「体験」が関係してくると思います。そこにある文字から何を受け取ることができるのか?受け取る情報が多ければ多いほど本を読むことが楽しくなると思います。
子供時代に読む、成人してから読む、子供が産まれてから読む、孫が産まれてから読む、その文章は全く異なる表情になるはずです。そして、その表情はその本を読む人によって違ってくるものです。
「遊びの中でルールを作ること」は「フィロソフィーを持つこと」に繋がっていきます。この体験は人生を楽しむ上でとても貴重ではないでしょうか?