本気の遊びを手に入れろ!

テクニックはすぐに上達する!

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上手くなるために「努力」という言葉がよく飛び交っています。「努力」という言葉の解釈は人によって結構違うのではないかと思います。

昔、プロ野球の巨人には長嶋茂雄さんというレジェンドがおり監督をされていました。その際、バッティングを指導させる時に話題なったのが擬音語です。「グッと締めて、バーと」というように擬音語とジェスチャーでバッティングを指導されるので多くの選手は戸惑っている様子でした。しかし、松井秀喜いう選手だけは違いました。ゴジラ松井ですね。この方は、長嶋監督が言っていることをしっかりと受け取りメジャーでも生かす事ができました。

これはなぜでしょうか?

ここにはとても大切なヒントが隠れています。なぜ、わかる人にはわかって、わからない人にはわからないんでしょうか?

これを捉えるためには「2スリット実験」というものを参考にしても良いかもしれません。これは光や粒子の性質を調べるための実験で、一つのスリットを通過する時の振る舞いではなく二つのスリットを通過する時の光や粒子の振る舞いを調べるものです。結論から言うと光や粒子が波として振る舞う事がわかります。簡単に言うと一つのスリットではそのスリットを通過した先の壁にぶつかるのに対して、二つのスリットがある場合は二つのスリットの間、スリットのない部分の裏にある壁に最も多くぶつかります。二つのスリットがあることで粒子が干渉し波動性が生まれ直線的なものから波のような振る舞いになります。

これは、振り幅、選択肢、などにおいても考察できます。多くはその幅の中央を取るという事です。これはまた別の機会に。

ここで面白いのは光や粒子が予想通りの動きをしていないことです。直線だと思ったけれどなぜ?という現象が起きます。この様子を見て「光や粒子が曲線のように運動をしている」と結論づけるのは少し違うような気がします。結果から見るとそうなのであろう、と仮説が立ちますが実際には波動性が影響を及ぼしているわけですね。

「じゃあ、実際に見てみよう!」ということになり、その様子を「観察」するとどうなると思いますか?

さらに面白いことに「観察」することで波動性が失われ予想通りの結果に戻ります。粒子は直線的に壁にぶつかります。これは観察による影響です。位置の特定には運動に干渉するため、、、詳しくは「2スリット実験 観察」で調べてみてください。

この現象からはとても多くの考察が生まれます。例えば、子育て世代で言うと過保護や早期教育という「観察」ですね。予想通りの結果にしかなりません。「ヘルプではなくサポート」という言葉の概念であったり、「カエルの子はカエル」も確かにそうだよなーと「観察」における影響はいろいろと類似性が見られます。

話を戻すと「観察」を受けることで「そうなる」というものが「そうなる」ということですね。

話を単純にすると二つのスリットは「やる」と「やらない」という二つの選択肢に置き換える事が出来ます。「観察」の影響を受ければ、やるか、やらないか、というとても単純な話になります。

しかし、「観察」を受けないのであればここには波動性のようなものが生まれます。

「やるようでやらない」「やらないようでやる」「やる」「やらない」「やるようでやらないようでやる」「やらないようでやるようでやらない」というような複雑な表現が生まれてきます。では、「やる」と「やらないようでやる」は結果として「やる」のだから同じだ!ということになりますか?

要するに話が通じる通じないの差はこの複雑さを持っているか、いないか、だろうと思います。

乱暴な言い方をすればこの複雑さは「スキル」で、やるやらないの単純なものは「テクニック」です。

ではこの複雑な判断はどのように生まれるのか?

それは「観察者」がいない状況に他なりません。ヨハンクライフ氏もストリートサッカーを推奨していました。そういうことだと思います。

「バーとやるんだよ!」「ぎゅっとして!」と言われた時に「なるほど!」となれば上手くなります。

そのためには何が必要でしょうか?これは本人による自由な体験です。人は皆違うのでその人が自分で体験するのが最も早く答えに辿り着く事ができる方法です。【あなたは誰ですか?】という事が明確である必要があります。

余談ですが、自分自身が観察者になるケースもあります。おそらくこの状態が発達に障害を来たすケースです。子供のうちから好き嫌いがはっきりする事で自分自身が観察者となります。大人も好き嫌いの感覚が出ますから学ぶことが難しくなります。

この日のトレーニングでは、キックがうまく出来ない子が動いているボールをダイレクトでシュートする、サイドからのクロスをダイレクトでシュートする、こんな事が1時間程度の時間で出来てしまいました。

これは何ら不思議なことではなく、私が特別優れているわけではありません。

体験する事で出来ない事が出来るようになることを自分自身が体験し知っているかどうかの差です。指導者は学び続けなればなりません。これは本を読むことではなく考えることでもなく体験をする事だと思います。

人が何かを考えるのは体験が足らないからであって、体験さえしていれば考える必要がなくなります。自然に出来ます。だから、「バーっと」というイメージだけ共有できればできちゃうんですね。「2スリット実験」という言葉からどこまでキャッチするのか?これは自分の体験量であり、スキルです。

この体験をより多く選手にしてもらうために指導者はトレーニング計画を立て、それぞれのトレーニングでは再現性を増すためにオーガナイズを設定しています。子供達は体験さえ積む事ができれば誰でも簡単に出来るようになります。

このような感覚を大人が持っていればこうなるし、持っていなければ「努力」という言葉が登場することでしょう。こんなチャンスは小学生の時しかありません。本当に今その努力が必要ですか?

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