ゴールが欲しければシュートを打つ
シュートが打ちたければ相手をどかす
相手をどかしたければ、、、
では、それをやるために?
腹が減ったら飯を食うわけですが、飯は自然に湧いてくるわけではありません。食材は育てて収穫するか?または捕獲するか?ということが必要で、それを食べれるように加工(調理)することも必要です。また、いつも手元にわけではないので保管する必要もあります。
と、いうように「腹が減ったら飯を食う」という当たり前のことが出来るのであれば次々と行動は生まれてきます。
ここまではアナロジーとして解説しております。
要するに「腹が減ったら飯を食う」という単純な行動が取れていない子供がたくさんいるのです。
話を単純にすると、人という一つの単位がそれ以外の何らかの外とコミュニケーションを取っているだけの話です。これはサッカーに限った話ではありません。
口から何かを食べて肛門から排出されます。これは一見すると体の中に入っているように見えますが、口から肛門につながる臓器は外に接していると言えます。トンネルです。実際に中に入ってくるのは栄養素です。体に良くない栄養素を過剰に摂取すれば病気なります。
このように人は外と接していて何かを摂取しています。摂取しているもの、それを取り入れる能力は皆違います。そのため結果も変わります。自分以外に同じものは存在しません。
でも、人は視覚的に概念的に同じだと定義しがちです。生まれた国が同じだから、肌の色が同じだから、髪の色が同じだから、境遇が同じだから、同じだ、とまとめます。同じだという集団が出来上がると今度はあいつらは違う、ということが起こります。争いや差別は生まれていきます。
そうではなく、そもそもみんな違うでしょ?同じではない、という理解であれば争いや差別は無くなると思います。違うという定義なので違うこと言うことを指摘しても無駄になりますよね。
ちょっと話がそれましたが、人はそれぞれ違うわけです。腹が減っているのは誰ですか?それは自分に他なりません。自分(だけ)が腹が減っていたらどうしたいですか?そのために何をしますか?
となってくれば自然と自立することはできると思います。「皆んなと一緒」としてしまえば自立は遠くに逃げていきます。自立した上で集団になれば良い、これは今のサッカー日本代表の姿でもあります。海外で活躍している選手ばかりですよね?
学校教育は皆んな一緒となっています。これが悪いのではなく、小学校に入る前に「腹が減ったら飯を食う」が出来ていなければならない、ということです。それまでの間、親が過干渉になっていればそうは育っていません。
だから、私はこんな形態のサッカースクールをやっています。「腹が減ったら飯を食う」ここを学習してもらっています。
ここにいる子達は遊び終わったら片付けるのです。