子供達はどこかケジメがなく、一見すると遊んでいる?大人から見るとふざけている?ように映ります。
子供達は”やっていない”という評価になりますか?
この評価をするためには、何を持って”やっている”のか?という定義が必要になります。
多くの大人はそれが”学習“か否かというモノサシで測っているように思います。このモノサシは単一のものではなく、複数かもしれないし、時と場合によって変化するかもしれません。
“やる”という行動には、成長につながる、成果が出る、などといった結果を求めたものになりがちです。もちろん結果は付いてきます。それが良い方向であればより良く感じます。
問題はその結果は経済的なモノサシに偏っていませんか?
漠然と他の人よりお金を稼げるように、偏差値の高い大学をを目指し、市場スケールが大きい上場企業に勤める、というようなイメージをいただいていませんか?
では、そのような生活をしている人が本当に幸せなのでしょうか?熟年離婚などという言葉もあるように先輩達は人生の晩年で大きな挫折をしたりしていませんか?
金があれば良いのであれば、金がなければ不要ということです。
なぜ、多くの人が同じような思想のもと子供に何かを与えているのでしょうか?これはとても不思議です。
そして、ここでいくつか定義したようなことは一切行っていません。多くの方は本当に”漠然と”そう思い込んでいます。
子供のうちは、やろうとすることはやっても良いですが、やらせる必要は全くないと思います。それは、やっても無駄だからです。何かに勝ってもその後の身体的な成長で結果が変わってしまったり、負けたとしても後で逆に勝ってしまったりします。
この時点で結果にフォーカスする必要は全くありません。勝ちなら勝ちだし、負けなら負けで、明日になったら忘れれば良いです。
ただし、重要となるのは”自分から何かをやること”です。これは主体性と評価することが出来ます。これは子供自らの行動ととして現れるべきです。
そして、大人がそんな子供達に教えていくのは、主体性のある行動について自ら準備すること、そして片付けること、です。
これが最も難しいことです。子供達は皆サッカーをやっているようでそうでもありません。やっていることは個々に異なります。それらに準備が必要か否かは大人が評価しても難しいところです。
ただ一つ言えることは、自分がやっていることは周りに人がいるという環境で成立している、ということです。
準備とは、他人を思いやることでもあります。片付けも同じです。
自分以外の誰かのために自分の時間の能力を使います。もしも、その能力を自分が戦うためだけに使ったら?これが相手に勝つということです。
ではいつやるのか?それは大人になった時でしょう。
子供のうちは、主体的な行動を繰り返すこと、そして大人がその前後にある準備や他者への配慮、思いやりを伝えていくこと、これは即ちコミュニケーション能力です。
主体的な行動がぶつかり合った時、お友達と衝突します。この体験機会がとても重要です。この体験を、準備や片付けといった行動に関連づけていきます。
環境を作ること、実際にやること、それを検証すること、これらは起業の能力でもありますね。