本気の遊びを手に入れろ!

サッカーというお菓子

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例えば、お子さんがお菓子がとても好きで「3食お菓子にしたい」と言ってきたらどうしますか?

おそらく、体のことを考えて栄養バランスの取れた食事の大切さに伝えるのではないでしょうか?

サッカーもお菓子と同じです。サッカーが好きでサッカーをやりたい、という子供の願望で大人がサッカーを与えればどんなことが起こるでしょうか?簡単な話、渇望しているのは本人ですからそもそも他人が与える必要があるのか?という話になると思います。

自分でやればよくない?

誰がに教えてもらうことは結構どうでも良いことです。まず大切なのは「自分がやりたいことを自分でやること」です。当たり前の話としてこれが【主体性】でありその過程で【自立】が育まれます。

あと邪魔な存在としては承認欲求ですかね。他人に自分を認めてもらいたい、ということですがなんか意味があるのでしょうか?自分を認めるのは自分でよくない?ということです。なぜ自分という唯一無二の存在を他人に認めてもらう必要があるのでしょうか?そんなことをすれば自分を失います。

強いチームに入ること、試合で勝つこと、などどうでも良いくないですか?肝心なことはサッカーを自分自身がやっているのか?ということとサッカーが楽しいのか?ということです。

見渡してみると「サッカーが楽しい!」ということが「お母さんに褒められるから!」「見てもらえるから!」と承認欲求が遺伝してしまっています。

サッカーは人が楽しむスポーツです。当たり前の話として「人としての能力の高さ」が求められます。

他の子もより、運動能力が優れている、頭が良い、器用である、という比べられる指標もあれば、芸術的な独自の指標もあります。どちらかというとエリート以外は独自の指標で楽しむ必要があります。なぜなら、比べられる指標はどんなに努力してもエリートには敵いません。物が違いすぎます。

一生懸命サッカーの練習をしている子たちが非常に多くいますが、エリートは練習をしなくても上手いです。しかも頭抜けて上手いです。なぜ上手いのかというと運動能力が頭抜けているからです。となると、サッカーのトレーニングをして追いつけますか?

目に映る現象として「サッカーが上手い子」なんですが別にサッカーだけ上手いわけではありません。こういう子は何をやっても上手いです。

育成で取り組むべきはこの差を埋めてあげることです。スポーツテストでA判定を当たり前に取れるような子にしてあげることが先決です。そうなれば別にサッカーをトレーニングしなくてもそれなりに上手くなります。

次にやるべきは「独自の指標」を育てることです。誰にも理解できない、方法がわからない、という「独自のもの」で答えに辿り着くことが出来れば勝てますよね?体も動くわけですから。

大人が目に見えたことを一生懸命子供達に伝えようとしているのですが、子供達は目が見えています。わざわざ言語化する意味はありません。

言語化すべきは「お菓子だけではなく色々なものを食べないと楽しいことができなくなるよ?」という目に見えないことではないですか?

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