「サッカーが上手い」と評価するための定義はどんなものでしょうか?
これには「現象と原因」というものが深く関わってきますが、一般的にはボールを持つ能力が高い選手を「サッカーが上手い」と定義するかと思います。
表現として「ボールを持つ能力【も】高い」というのが正解だと思います。
何が違うのか、というとボールを持つ能力と捉えるとドリブルのトレーニングを過度に行えば良い、と思うかもしれませんが、これはおそらく間違いです。検証データがありませんので「おそらく」としておきます。
「ボールを持つ能力」は、ボールフィーリングだけの話ではありません。目に見えているのは、ボールフィーリングかもしれませんが、実際にはかなり多くの判断基準が存在し、またそれをインプットすることが必要です。その結果を実現しやすくするためにはボールフィーリング能力が高い方が有利です。ボールを持つ能力は現象であって、原因はボールフィーリングではありません。
結果から言ってしまえば、誰よりも運動能力が高く、誰よりも賢い選手、というのがサッカーが上手い選手です。
なので、サッカー選手になりたいのであれば自分のポテンシャルを全開にする必要があり、環境は運動能力、賢さ、を育ててあげる必要があります。
賢さがなぜ必要かというと、サッカーのトレーニングは賢くないとついてくることが出来ないからです。これは頭の良し悪しではなく「ピクチャーの共有」ができること、主体的であり周りを見て行動する力があること、という意味です。
例えば「真面目にやれ!」と言われながら何かをやっている子はサッカーが上手くなるのが難しいと思います。これはやらされている、ということ以外にも大きな問題があります。
外部的な問題でいうと「真面目」という定義が人によって異なるという点です。これは「味覚」と同じで感じ方は人によって異なり、言語で伝えることが難しいものです。「真面目」というのは結果を表す言葉であって目的に使う言葉ではないと思います。「美味しい」もその人の結果(感想)です。何かをやっている様子が結果として真面目に映る、というのが正解だと思います。
そのため、その「真面目」という言語から選手の中に定義が生まれないのでプレーが定まることがありません。だから上手くはなりませんよね。これは単なる自分の感想ですから人にぶつけるものではないので指導者や大人の課題です。立場を利用して感想をぶつけるのはハラスメントです。
真面目というのが「結果」を表すものであれば、当然何かをやる必要があります。そこには好奇心を持つこと、主体的に取り組むこと、自立すること、などが不可欠です。これが無いから「真面目にやれ!」となるのでしょう。
要するに土台が整っていないのにボールフィーリングという現象を教育しようとするから双方にストレスが掛かるんだと思います。
主体的であり、自立している選手であれば自主的に能力を高めようとするのではないでしょうか?今の子達は、それら土台がないのにテクニックだけでどうにかしようとしている子で溢れています。土台がないから習い事が増えるんだと思います。取り組む内容が逆ですよね?
小学生の中に私が入って試合をやればものすごく活躍できると思います。大人ですから。しかし、私はプロサッカー選手にはなっていませんし、なれるはずもありません。だから、小学生の中で早く大人に近づこうとするのは無駄になってしまうと思います。どんなに努力してもいずれ一般人になります。
「子供は小さな大人ではない」という言葉の通りです。今勝たせても全く意味がない、ということに気が付かない限り未来は変わりません。
本物は努力などしなくても目立ちます。それでも今は努力している子に負けるかもしれませんが、努力なくそこにいるのであればそのうち追い越します。
ポテンシャルは持って生まれたもの以上は発揮されないと思います。
その上でサッカーが上手くなるために何をすべきか?というと賢くなるべきです。賢さは体験と学習により身につきます。これは運動能力ほど人によって差がないと思います。なんせ味覚のようなもので自由ですから。だから、ポテンシャルを発揮することができれば、個の能力を発揮することが出来ます。
この賢さがあれば、いろいろと能力が備わり結果として「ピクチャーの共有」ができます。これさえ出来れば、サッカーはトレーニングによってサッカーが上手くなります。
何かをやらされることではなく、何かの言葉をきっかけに選手がピクチャーを共有する、そんな形がサッカーの戦術ですね。
これを実現するためには、体が自由に動くこと、賢いこと、が求められます。子供達がこの両方を体験し学習する場がティエラの火曜日の活動です。実際に「ピクチャーの共有」が生まれ「社会的な自立」のシーンが生まれています。