この言葉を聞い時、どのような意味、意図が含まれていると感じとりますか?
何を受け取るのか?これには個人差があると思います。
単純に、サイズが違う、力が違う、経済力が違う、知識が違う、年齢が違う、顔が違う、かかる病気が違う、などいろいろと比較することが出来ると思います。このほかにも、車の運転が出来ない、タバコが吸えない、結婚が出来ない、お酒が飲めない、などという法律で規制されているようなこともあります。
出来ることと、出来ないこともあります。
生まれて間もない子は、歩くことができません。食べることもできません。目も見えませんね。月日を重ねるにつれて出来ることは増えていきます。目で見ること、声を聞くこと、触ること、ミルクを飲むこと、と徐々に出来ることは増えていきます。
1番初めに出来ることはなんだったでしょうか?これは「泣くこと」です。生まれてすぐに泣きます。羊水の中にいた子供は、突然外に飛び出してきます。水中に比べ体は重い、そもそも呼吸をしてなかったわけで肺というものが急激に発達しなければなりません。肺は酸素を取り入れ脳や体に酸素を送ります。
肺は筋肉です。人が亡くなる時、最後に大きな呼吸をします。肺が力を失って萎んだということだと思います。泣けば泣くほど、肺は鍛えられることになります。泣けば泣くほど、酸素は体と脳へ巡ります。泣けば泣くほど心拍数が上がり心臓が鍛えられるでしょう。
これはとても大切な成長のプロセスです。「赤ちゃんは泣くことが仕事」なんて言葉を聞いたことはありませんか?まさに成長するための仕事なんです。
泣く声がうるさいからと言って何か映像のようなものを見せる方がいるそうですが、これはある種の脳梗塞状態だとある教授がYoutubeの動画で説明されていました。満足して泣き止んでいるのではなく脳がフリーズしている状態を見て「楽しくて泣き止んでいる」と大人は評価してしまいます。
これは大人の視点であって赤ちゃんからすると全く異なります。知識があればそれを脳梗塞状態と評価します。
おそらく、生まれてすぐから大人達の勘違いが始まっていると思います。
大人達は成長を喜びます。他の子と比較することもあります。あの子は歩き出したけどうちの子は、、、というような感じです。
子供は生まれてすぐ視力があるわけではありません。徐々に視力がついてきます。確か7日くらい経つと見えてくると言っていたような気がします。それまでは、見えていない世界にいます。
見えていない世界の中で誰かが助けて続けてくれているわけですね。言葉は話せませんので、泣くことで感覚を伝えてくれます。お腹が空いた、何かが下から出た、とわかりやすいものから、理由がなんだかよくわからない時でも泣いています。
言葉はありませんので伝えることができませんが、何か感覚的に違和感があり伝えたいから泣いていると思います。それだけ感覚が優れているということになります。
目が見えませんので確認することができません。何かが当たっている、などいう触覚であったり、口を使って確かめようとします。誤飲の事故はこうして起こります。体が動かせる範囲も限定的です。歩けませんし、立てません。まずは転がるところからです。寝返りですね。そうこうしていると首や腰がすわってきます。つかまり立ちなんかをしてそのうち歩き出します。
目が見えた時、初めて景色が映ります。その時初めて見えた顔がお母さんになると思います。
このような感じで子供は生まれてから少しづつ感覚を獲得していくになります。そう【感覚】を獲得していきます。この感覚は言葉では表現できないようなものです。
触ってみたらプルプルしている、なんかクネクネしている、なんか硬い。と虫を触ります。ほらっ!と見せてくる子供に対して、大人はいうと虫を持つ子供にこっちにくるな!と悲鳴をあげます。
大人はよく知っています。虫がどんな生き物で何を食べていてよく観察してみるとグロテスクだったりと。この情報によって大人は子供とは異なった感覚を持ちます。
子供は実際に見て、触って、感覚を得ています。しかし、大人は感覚によってそれを選びます。大人の感覚を作っているのは知識と経験ですね。
ではこれを、スポーツに置き換えてみましょう。
大人は、感覚を持っています。今まで生きてきた中で、スポーツ万能なかっこいい子がいたなーでもあの子は陰で意地悪をしてたんだよなー。あの時に見たマラドーナのシュートはすごかったなーでもハンドだったのに神の手だって!おかしいよね?というように多くの経験がそのスポーツの概念を創り上げていきます。
これはスポーツだけではないですね。ルールを守らないことは悪だ!という人もいれば、いいでしょ別にバレなければ!という人もいます。これはその人の経験に基づいているわけです。
では子供はどうでしょうか?う◯ちってなんかヌルヌルしてるんだね!カマキリにご飯をあげたいからコオロギとってくるね!大人の感覚からすると無邪気で時に残酷に映ります。でも、それは大人のものの見方です。
赤ちゃんを思い出してくだい。言葉もなく、目も見えない中で、五感にも満たない感覚だけを使い生きようとしている、ということです。
子供達は言葉や知識というような概念の世界にはいませんよね?感覚を使って生きています。人も自然の一部です。人が作ったものだけで生きることはできません。まずは自然と融合することが必要です。それは五感を使い感覚を磨くことです。磨かれた感覚には概念がスッと溶け込みます。
「子供は自分の感覚を使い鍛え、大人は感覚で選ぶ」
よく泣く子は感覚が鋭く心肺機能が発達しています。時間という物差しを使い競争をすればより早く概念を入れた方が良い、となります。これが早期教育です。しかし、子供は感覚を使うことはできません。概念は生かされることはありません。概念は人によって作られたものですので人になる前に入れても意味がありません。人は自然の一部ですから、自然に人をつくってもらう必要があります。時間という束縛から抜けて五感を使い、感覚を得ていくことがまずやるべきことでしょう。
「子供は小さな大人ではない」
という言葉を聞いた時、今、私の感覚ではこのような概念を生み出します。今から書き直せばまた変わると思います。冒頭でも書いた通り人よって異なると思います。言葉は概念です。聞く側次第で受け取れる深さ、範囲、意味すらも変わってくると思います。
映画の通訳によく見られる議論です。直訳と違うではないか!と言っている人たちが如何に的外れなことを言っているのか。言葉は概念です。人によって表現は違うんです。なぜなら感覚が異なるからです。アメリカで生活していた人の感覚で発した言葉では日本人には伝わらない、ということです。だから、日本人が通訳していてそれを合わせます。言葉を変えて感覚を合わせる作業でまさにプロの仕事です。
「現象ではなく原因」「ゴールを観る」「ボールを置く」「ボールを奪う」「ファーストディフェンス」「ヘルプではなくサポート」「シンプル、クイック、ポイント」「フリーズコーチング」「シンクロコーチング」などなどサッカーには数多くの、コーチング、トレーニング計画、プレーの原則、選手像、その先には戦術という難解な言葉もあります。これらの言葉にはそれぞれ概念が存在しています。それら概念は自分という概念をぶつけない限り姿を見せてくれません。それがフィロソフィーです。
テクニック、戦術、は概念です。果たして小学生にその本質、深さを受け入れる準備ができていると思いますか?誰よりも早く繰り返せばなんとかなるなんて思ったりしませんよね?
子供達はサッカーの前に知らなければならないことがたくさんあります。子供達はいずれ大人と同じように感覚で選ぶようになります。その時、五感による感覚の学びから今ある感覚を使うという生き方に変わります。それが中学校生活にある思春期でしょうね。
活動のことも付け加えておきます。靴紐が結べなかった子が靴紐を結べるようになりました!みんな楽しそうに遊んでいました!(五感を使って)