釈迦の前身が老子だ、というように老子という方については諸説あります。
その老子が道(タオ)というものを説いています。
道(タオ)とは(これは私の解釈です)一体的なものです。一体的とは名前が存在しない、ということです。物体の境界線は名前によって明確化されます。目に見えているものは、青や赤、などの色、丸や四角などの形、動物や人などの生き物、などそれぞれ何らかの名前によって定義され分類することがでます。人であっても、腕、足、頭、胸、尻、などさらに名前によって分類することが出来ます。
その境界線を成しているのは名前です。
名前という物を取り除くとどうなるのか?途端に目の前の状況が説明できなくなります。これが一体的な状態です。
道(タオ)は非常に面白い概念です。境界線を無くすものとしてはアナロジーも同じように境界線を超えていくものです。
子供達は名前のような概念の世界で生きているのではなく、感覚的な一体的な世界で生きています。
道(タオ)も「子供は小さな大人ではない」という言葉に格納されている概念です。
ドリブルは、小指で触って、親指で触って、こう来たらこうする、などこれらは名前(定義)ですね。子供達は感覚の世界にいますので名前を理解することが苦手です。大人は逆です。
しかし、この感覚的な世界にいる子供達が大人のいる概念の世界に入ってくるタイミングがあります。それがゴールデンエイジです。
ゴールデンエイジを効果的に活用するためには、それまでの期間、より感覚的に一体的に子供達の感覚が育つよう名前を排除する必要があります。一体的な世界の中でダラーっと体験を積ませる。そんな時を過ごしているといつしか覚醒します。これがゴールデンエイジです。
こうなるとスポンジのように概念を吸収していきます。そしてこれは簡単な原理です。自分が体験してきたことにバシバシ名前がついていっている状態ですね。何もサッカーに限った話ではありません。これは一体的な世界ですので全てのものにそのような現象が起きます。
だから、突然勉強が出来るようになります。
例えば「カップ焼きそばにお湯を注ぎ湯切りしようとしたら手にお湯がかかり熱かった」
「水は100度で沸騰して気体に変わる」
「あーあの熱いやつね」と記憶とリンクしていきます。これが勉強で身につくものですね。あくまで自分の体験に結びついた概念が頭に残っていくことになります。それ以外はいくら頑張って覚えてもテスト後に忘れます。
塾行って頑張ってもあまり意味はないです。なぜなら名前のない一体的な体験が自分の中にないからです。
たまにサッカーの試合で「魚を捕まえるように守備してごらんよ」と子供に伝えます。なぜならティエラでは夏に川遊びをして魚を捕まえているのでそれを体験しているのです。
これが一体的な世界の体験に名前をつける作業です。サッカーの中で相手のボールを奪うシーンという一体的な世界でやるべきことにフォーカスしていく、ということです。
そのために、子供達は一体的な世界で何も考えず遊んでいる時間が必要になります。これは子供達の未来に向けて投資の時間でもありますね!