目の前の景色にはほぼ全てに名前と概念がついています。
「車」という名前に「動力がある移動手段」というような何らかの概念がついています。同じようにサッカーの中にも「ドリブル」という名前と「ボールを運ぶ」という概念があり、最近では「ダブルタッチ」という名前に「両足のインサイドでボールを動かす」というような概念がついています。
この2つ「名前」と「概念」が揃うと「競争」が起こります。単純に言えば「上手い下手」という優劣です。そして「競争」が起こると「効率」が求められるようになっていきます。
名前をつけるという行為はこのような流れ、結果を生み出していきます。
昔は自分の名前も無かったと思います。身分にもよるでしょうが通称のようなものだったのでないか、と思います。それくらい不要なものであったと思います。
名前があるということは「概念」が必要になります。役割のようなものであったり存在価値であったり理由のようなものです。これを「個性」と定義することができると思います。
「名前」と「概念」が2つ揃えば「競争」が生まれます。さて、お子さんに「概念」と呼べるほどの「個性」がありますか?ということです。
競争を生むためには、まず名前に対する概念、個性が必要です。名前だけあって概念がないのに競争を促してしまったら?それは存在する意味がないんです。だから、競争の中でその意味にあたる「概念」を得ようとすると思います。
苦しみますね。
競争は1人では出来ませんので、多数の中で行われます。そうなると、相手に勝つ、負ける、というところでしか価値を見出せなくなります。
誰にも負けないような努力が必要だ、となるわけです。
そうではなく、名前に対する概念を初めにつけるべきです。概念さえあれば勝手に競争は起こります。
自己紹介が出来ること!これにつきます。
自分が何者なのか?知らないと出来ないので名前のない世界の中でただ1人自分だけが名前を持つ環境で見つける必要があります。1人遊びですね。
今度は、名前のわかる人たち(友人)、もしくは分からないような人たちと一緒に遊ぶことで、自分の輪郭を明確にしていきます。
自分の名前と自分の存在価値が徐々に明確になっていきます。主体性であり自立であり、競争であり努力が始まります。
自由な遊びにも数多くの名前がありますが、それを全て排除することが重要です。余計なものは取っ払って自分に向き合う時間が必要でその時間が長ければ長いほど人は成長できます。
その様子を見ている人がこれを理解することができなければ許容することが出来ません。どっか名前と概念が2つ揃った、塾のような環境に子供を連れていきます。
見ている景色は同じでもそこに含まれている情報量をキャッチする能力にはかなり大きな開きがあります。
「蛙の子は蛙」
子供達にはみんな可能性がありますが、このハードルはかなり高いです。