プレーとは何でしょう?一般的な概念としては判断と行動という要素をプレーと定義しています。
どちらの言葉もすることでこれは誰がするのかというと自分がすることです。
では、何をするのでしょうか?何を判断し、何をするのでしょう?
プレーをするためには、そのプレーの対象が必要となります。目的であり動機ですね。
例えばドリブルを目的としてプレーをすると定義してみると何だか違和感を感じませんか?
ドリブルとは何なのか?これは行動です。要するにプレーに含まれる要素の一つで判断をした後に起こる行動です。では、行動を目的にするということはその判断を誰がしているのでしょうか?
これは判断がない、ということになると思います。何の判断もなく行動が起こっているという状態です。私はこれとよく似たものを見たことがあります。それは道を走る車であり、何かものを作る機械です。
判断がなく行動が起こりその質が高いというのはマシンの特徴です。
人間をマシンとして使いたいのなら、判断を奪い、行動を目的とする習慣を身につけさせれば良いことがわかります。これはまずくないですか?
このような習慣を自我が生まれる15歳より前に習慣化してしまえばその子の人生はその後マシンとして生きることになります。心を持ったマシンですから、優しくしてほしい、という甘えや、認めてほしい、というような承認欲求を求めて生きていくことになりとても苦しいと思います。
子供達が幸せな人生を送るためには自らが判断して行動する機会を多く与え自我が生まれるときにはそれが習慣化していることが重要です。
何をやりたいのか?これは過去にやったときの感情、誰かがやっていてポジティブに映ったもの、このような興味や共感、好奇心などが動機を作ります。
そして、この何に対してはなぜやりたいのか?という理由も自動的についてきます。楽しそうだから、というような感情的要素がやりたいことには付いてきます。
逆を言えば、楽しい、という感情は何、という動機を生み、判断と行動を生み出します。
そしてこれら一連をどのようにやるのでしょう?
楽しいを実現するためにルールを設定したりしますね。
私あれやりたい!から始まりみんなでリレーを始めました。そのリレーはみんな楽しそうですね!