相手の足を見て、とか
おうやれば相手がこうなって、とか
全く見当違いだと思います。
ドリブルという言葉とそれはこういうものだという概念が一人歩きして勝手な競争が始まります。
ドリブルなんて他人と比較できるわけないですよ?道の歩き方として、あの人は優れているがあなたのはダメだ、なんて指摘をされた人はいないと思います。比べるものではないですね。
目的地にこの時間までに着かなければならない、という条件が加わったらこれは比較が生まれると思います。間に合うのか?間に合わないのか?という事です。
ドリブルのスクールなんてものはもはや意味不明です。論理的に説明が難しいです。チームではありませんのでドリブルの目的は提示されません。しかし、上手いか、下手か、出来るのか、出来ないのか、というような比較は生まれています。
サッカーとは関係ない比較に対して時間とお金を使い、気分の上げ下げが起こります。カオスです。
ドリブルはサッカーの中で前進する事という目的が発せられた時に前進できる事が重要になります。その前進に何秒かかるのか?前進を達成する確率はどれくらいなのか、こんなところが比較要素になるでしょう。
たまに道を歩いていて、前から来る人と動きが合ってしまい左右に動いてしまう事がありますね。彼は歩く上で正解なのでしょうか?普通に考えればスーッと歩くことができた方が良いと思いませんか?
サッカーでは目の前の相手の足を見たり、動きを見たり、というドリブルの指導も見られます。これは間違いですよね。そんな道の歩き方をしている人はいません。
だいたいは目的地を見てそこに向かって歩いでないます。
どこに向かっているのか?ドリブルを習っている子は「ゴール」とこれまた習ったような事を答えそうです。ルールを考えればゴールに入るべきはボールであり、人ではありません。なぜ人がゴールを目指しているのですか?
目的地を見てそこに向かってボールと共に走る、その目的地は自分の頭にのみあり誰にもバレていませんね。そのうちゴールへの道も開くのではないでしょうか?
目の前の相手を見てドリブルをしている子は視覚で得るべき情報量が圧倒的に少ないです。それでは戦術的なプレーが出来ませんよ?