メインコーチ 服部 豪 JFA公認B級指導者ライセンス
成長のフィロソフィー(哲学)
スポーツ指導の現場では個人のポテンシャルに対する働き掛けが多く違和感を感じていました。ポテンシャルが見えてきていない段階、ポテンシャルを活かす思考へのアプローチが足りないのではないか?そんな思いでサッカー、指導法、育成法、教育、スポーツ科学、力学、スポーツ社会学、地域社会、などなど多くのテーマを独学で学び、また現場に飛び込み知識を得てきました。
そこで見えてきたのが、そもそも働き掛けるポイントがズレているのではないか?という視点です。
残念ながらスポーツ業界には、暴力暴言、補欠問題、などスポーツを楽しむ本人に対するストレスが存在しています。これらの課題も原因はポイントのズレによるものではないか?と思っています。
私はこのような仮説をたてて日々指導を行っています。
y=f(x)
関数とは、「独立変数 x の値が決まると従属変数 y の値がただ 1 つに決まるとき、「y は x の関数である」という。」ものです。参考サイト「関数とは?意味や用語(https://univ-juken.com/kansu)」
このyが「目の前のプレー(現象)」、fを「身体能力やテクニックなどの個人のポテンシャル」、xを「その時の個人の判断」、と置き換えると整理できると思います。
評価のポイント
単純に「目の前のプレー」を見て評価してしまうと働きかける対象は、「身体能力、テクニック」、「判断」といずれも個人になってしまいます。
これがスポーツで起こる、それ以外のことでも起こる、個人に対するハラスメントの原因だと思います。しかも、子供の時にこのような育成を受けてしまうと自ずと自身もこのような育成をすることになってしまうので大人の社会でもハラスメントは存在してしまいます。
だから、評価の対象を「目の前のプレー」ではなくその【原因】に向ける必要がでてきます。目の前のプレーを分析し原因に対してアプローチすることで直接個人に働き掛けることはなくなりハラスメントを軽減することにも繋がります。
この原因は、身体能力と原理原則など普遍的な基礎知識に他なりません。身体能力のポテンシャルを引き出す、原理原則を学ぶ、それを自分の力で状況により判断する、このようなことを身につけられるようトレーニングを計画しています。
例えば、ドリブルも現象の一つです。なぜ切り返すのか、そこには原則に伴う多くのロジックが存在しています。それら原則を積み重ねることでドリブルは自然と上手くなります。しかし、ドリブルという現象をトレーニングしてしまうとそこに隠れている原理原則に気付く機会を失い適切なプレーをすることが身につきません。
習慣化の課題
日常的な用事で車を使っている場合、わざわざ徒歩に切り替えることはないと思います。徒歩は健康に良い、と人に言われても面倒ですよね。徒歩では危機管理能力やここにこんな店があるんだ、などの気付き、多くの情報も得られます。
良いとはわかっていてもなかなか出来ない、これは、例えば楽をする、早く着く、という判断からくる習慣です。この習慣はなかなか取れません。病気になり必然性が生まれれば取り組めるかもしれません。病気などは、生活習慣の失敗から学ぶこともできますが、サッカーでは病気になる、というほどの大きな失敗、きっかけは将来を悲観する挫折のタイミングになると思います。本人にはこれを跳ね返すメンタリティー、努力も必要ですが歴史から学びこれを避けることもできます。
育成上のリスクマネジメント
目の前のプレー(現象)に対するトレーニングは効率が良く成果がわかりやすいため、多くの子ども達も取り組んでいます。しかし、本来時間をかけて得るべきものを失ってもいます。
ドリブルをなぜするのか?どう生かすのか?が分かっていないのにテクニックを駆使すればゲームで効率よく活躍できるかもしれません。でも、身体能力が他を圧倒しない限りそれはいずれ限界がくる限定的な活躍となってしまいます。
ここでの最も大きな課題は子供達でも大人と同様「徒歩に切り替えることが出来なくなってしまう」という習慣を改善することが困難になる点です。サッカーに限らず基礎に目を向けられなくなるのはかなりリスクがあると思っています。これは俗にいう守破離のプロセスです。
指導者が伸ばすところ
目の前のプレーの質は個人の能力の質に他なりません。こうなると先ほどの関数に代入される独立変数は(x=1)となり、y=f(1)「目の前のプレー=個」なので個を伸ばすしか方法がなくなります。暴言にも繋がると思います。
さらに、ここにはもう一つ課題があってそれは「個の成長には限界がある」という点です。
アジア系よりもアフリカ系の方が身体能力が長けています。小学校の中でも運動神経抜群の子がいると思いますが、やはりこういう子には勝てません。このような、そもそもポテンシャルで負けている人に勝とうとすれば自ずと本人が傷付くことが簡単に想像できると思います。
指導者が出来ることは、fを最大限に引き出すために体の準備(休息を含む)をしてあげること、xに必要となる知識を与えること、その知識の活かし方を気付かせること、です。これはJFAで指導者が学ぶガイデットディスカバリーと同じだと思います。
単純にy、例えばルーレットのようなテクニックを反復練習で身につけても意味がありません。それは単なるルーレットでしかないからです。本来ルーレットは現象なのでその場で生み出されるものだと思います。
yを高めるトレーニングを積んだ子はいずれ限界を迎える一方でxに別の値を代入できる子は個人のポテンシャルに縛られない無限の成長を獲得することができます。私はプロ経験はありませんので、推測になりますが活躍し続ける選手とそうでない選手の分かれ目は成長の継続なんだと思います。
歴史に学ぶ
最近お亡くなりになったペレさんのプレーを見てみると現代サッカーで使われているようなテクニックを多く見ることができます。恐らくその場で生み出されたものだと思います。
サッカーは歴史が長く既に学問の域にまで分析され整理されています。現在は過去の偉業などを分析し学ぶことが出来るので、ペレさんのように0からプレーを生み出すことが出来る選手を育成することもできます。しかし、歴史から学ぶことなくこの偉業をなし遂げたペレさんはまさに神の領域の方だと改めて感銘を受けます。
指導者としての覚悟
この「y=f(x)」という仮設を維持、向上させるためにはサッカーだけでなく多くの分野を学び知識を得ていく必要があります。「学ぶことをやめたら教えることをやめなければならない」というロジェ・ルメールさんの言葉の通りだと思います。
こんなことを続けていると不思議なことに私の中で学びは楽しい遊びに代わってきました。この点も子供達に伝えていけたらと思っています。